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『ソクラテスの弁明』/プラトン

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

 アテナイ人諸君、わたしは何かを書こうと思ってパソコンの前に座るのだけど、はて一体何を書こうとしていたのか。いったん諦めてテレビを見たり、ソファで本を読んでいるときに限ってむくむくと湧きあがってくる書きたい想い。特別なことがあったわけではない。先日の帰省中、飛行機の中とか実家のシングルベッドで眠る寸前とか、そういうときにプラトンの『ソクラテスの弁明』を読んでいた。今日『クリトン』も読み終わった。古代ギリシャアテナイ(今のアテネ)、ソクラテスが<在った>時代は紀元前470年から399年。よくもこんなに大昔のはなしを。
 ソクラテスには著作はなく、彼に多大なる影響を受けたプラトンソクラテスに関する作品を沢山遺している。ソクラテスアテナイ人と語り合い、ただ生きるのではなく、善く生きることを説きつづけた。70歳のときに、神々に対する不敬、若者たちを毒する者、として死刑宣告を受ける。弟子たちの必死の説得にも関らず、毒杯をあおって死亡した。ソクラテスが「死」を恐れなかったのは、「死」とは何か知らなかったからだ。
 死を引き止める者に対して、じゃあ、君は「死」が何だか知っているかい?とくる。知らない、と答える。知らないものを恐れるということは、知らないものを知っていると思っていることに他ならないのだ。知らないのに知っているかのように言うのは正しくない、と言う。

ソクラテスの弁明』の中で、わたしが印象深かったのは、このへんだった。

しかし諸君は、たぶん、眠りかけているところを起こされた
人たちのように腹を立てて、アニュトスの言にしたがい、
わたしを叩いて、軽々に殺してしまうでしょう。
そしてそれからの一生を眠り続けることになるでしょう。


 叱ってくれたり、助言をしてくれる人というのは、時に腹立たしい存在になるけれど、それは眠っていた魂をごんごんと揺さぶり起こしているからなのだなーと思う。わたしも起こされたことが何度かあった。そして、身に起こるつらい経験なんかもそれにあたるのだと勝手に思うのだった。スピリチュアル方面で、この、魂が起こされるときの不快な感じのはなしをどこかでしたことがあったなーと思い出した。
  知らないことを知っているふりするのはやめようと思う。けれど、知らないものは知らないとわかることというのは、思った以上に難しい。だって「目に見えないこと」は、やはり不安だし、無条件に畏怖の念を感じてしまうもの。
 それにしても、今も昔も人間というのは、「生きること」「死ぬこと」を考えずにはいられないのだな。その<存在>とはいったい何であるか。宇宙の果ての果てはどこにあるのか。そもそも在るのか。無なのか。例えば、自分自身の見る夢のように、<わたし>という存在がパッと消えてしまえば、その視点の先にあった世界全てが<無>であるという想像をして怖くなることがある。肉体がないのに思考だけ残るということも考えるし、一瞬にして<無>が訪れて、肉体(物質)も精神も何もなくなるということも考える。意識というものがない状態、全くの<無>という状態を想像すると思わず息を止めてしまう。ああ、人間存在の根本を考えていると、日々の些細なひっかかりは、まるく、ヤスリをかけられたようにすべすべしてくる。夜空の星(何万光年前のひかり)を眺めているときのような気分だ。ひかり。光。銀杏の曲。太田さんの名前。ひかり。良い響き。