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たとえば、わたしが精神であるならば

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 デカルトの『方法序説』を読み終わる。途中、心臓の解剖的な話は気持ちが悪くなって飛ばしたけど。この時代に、世が認めている説をひっくり返すこと、それは生死を賭けた主張だった(処刑されるかもしれないのだから)。実際に、デカルトは『世界論 または光論』を生きている間に出版することはなかったそうだ。ちなみに天動説・地動説などもこの時代。デカルトの気の使いよう、知を追求する情熱と姿勢、自分の生を捧げて研究し続ける態度、謙虚さと自負、そんなものに触れられた気がする。「我思う、故に我あり」とはこの世界にある、ありとあらゆる全てのものを根底から疑い、概念を底から疑いつくした結果、その事象を疑っている<わたし>という存在、それだけは疑う余地がない、ということに気づく、という、当然のような話なんだけれども、最初っからそこに「居た」のと、考え抜き苦しみ抜いて結論に達してそこに「来た」のとでは同じ場所でも意味が全く違うのだ。答えはシンプルなのだけど、過程がややこしい。そしてその過程がとても重要だ。
 それから池田晶子の『考える日々2』を読み始めた。生まれたから生きて居る。そして死ぬ。それが人間なのだ、というあたりまえのあたりまえ、という事実を再認識する。「生きる意味」だとかそういうことを必死で考えるからわけがわからなくなるのだ。意味なんてないけれど、生まれたからには生きる、それに尽きる。意味づけをしたければしてもいい。わたしは、どちらかというと、あのときのこの経験は、わたしの魂を良くするためだったなどと思い、魂磨きとしての意味づけをするほうだ。そうでもしないと残りを生き延びることもままならない気分になってしまうから。もうすこし鍛錬を重ねれば、そんな言い訳を考えずとも、平穏なこころを手に入れることができるかもしれない。
いや、わたしに平穏なこころは似合わないか。
しかし、なるべく生活に支障をきたすほど落ち込むことは避けたいと常々思う。

 人間とは精神である。精神とは自己である。
とはキルケゴールの言葉。
わたしは、この肉体が引きずる痛みも引き受けて生きて行くしかないのだが、
突き詰めて、わたしは精神である、と考えるだけで、それならばどうにでもなるというふうに思うこともできる。
何を恐れるか。
 肉体が消失することを恐れなければ、この世のたいていのことはそれほど怖くはない。