森達也の本

 読書感想をまとめたいので、他のブログで書いたものを転記。(2007年12月8日)

いのちの食べかた』を読んで、ものすごい感動と衝撃を受け、それから森達也の本を読んでいこうと思っていたときに近所の古本屋でみつけた。
『ご臨終メディア』森達也森巣博(対談)
森さんは、オウムの信者側から撮ったドキュメンタリー『A』を作成した人。あたしらフツーにテレビ見て、「この事件はひどい!」「何でこんなことするんだ!」とかいろんな場面で憤慨してますけど、数ヶ月したらもうそんなの忘れて違うことに憤慨してる。そんなオバカなあたしらを洗脳&コントロールしてメディアはあたしたちをものを考えない国民に仕立て上げてるのかもしれない。

 オウム信者にしたって、全員が凶悪犯であるわけではなく、本当に純粋に信仰をもった人たちが大半だ。けど、メディアはあたかも全員が凶悪な人間かのように報道する。そのほうが都合がいいから。そして、そのほうが苦情が来ないからだという。それによって、堂々と迫害され普通の生活をする権利を奪われる人たち。何か事が起こると一斉に叩きのめすメディア。でもそんなメディアを作っているのはあたしたちの国民感情だ。
 イラクの人質の時の世の中の冷たさったらなかった。そりゃー危ないから行くなと言われてるところに行くのは悪いことかもしれない。でも緊急事態になったら助け合うのが人ってもんじゃないのかなー?何であんなみんなして責めるのだろう?あたしには正直理解不能だった。無事に帰って来てから相当つらかったろうにと思う。こんなことは日常行われていることだ。亀田問題然り、賞味期限切れ問題然り・・・。この対談の中にも出て来るけど、JR西日本福知山線事故があってから、西日本のちょっとしたオーバーラン(列車が規定の場所より進み過ぎて到着すること)がやたらニュースになったり、三菱のタイヤが取れたとか発火したとかが毎日のように報道された。これって、福知山線の事故があってから特別オーバーランが増えたとか三菱のタイヤが急に発火したわけじゃなく、日常的に今までもあったことで、それがこのトップニュースのおかげで商品価値が上がっただけなのだ。
こんなのちょっと考えたらわかることだ。
でもみんな考えないようにさせられてる。だから「アイツが悪い」といつもどこかに悪者を作ってそいつを責め続けている。そしてその責める行為はあたかも自分を正しくて真っ当な人生を歩んでいる人間と思わせてくれる。
 ニュースはまた、悲劇の人間模様を伝える。親が子を殺しただの子が親を、妻と愛人が共謀して夫を殺しただの、まあいろいろある。それは、見る側に「癒し」を与える役割を担っている。「あらー!気の毒な事件。うちは、まぁ・・・」というネガティブな慰めを与える。
 何気なくテレビを見て、疑問を持たずにすべてを受け入れていてはいけないなと改めて思った。言論の自由とは言ってもあたしらが気付かない程度に不自由があり−それはスポンサー企業であったり国であったり−報道も偏らないわけはない。だから自分で知ろうとしなければいけない。知らないほうが楽、知るのが怖いから知りたくないって、きっと自分でも気付かないうちに目を逸らしている部分はいっぱいあるんだろうな。『いのちの食べかた』という中学生くらい向けに書かれた本を読んだ時にそれを強く感じた。
 残酷だとかいう理由で、伝えられてない「と殺場」(「とさつ」という言葉すら変換もできないパソコン。ここにタブーがある証拠だ)のこと。どうやって豚や牛や鶏が殺されるか知っている人は少ない。知らされていない。同じ食べ物でも魚や野菜のことはだいたいわかるのに、なんで?実は、残酷という理由のほかに、被差別部落などの問題が絡んでいる。こういうのって、本当考えないでいたら疑問すら浮かばなくなってしまうんだよなー。食の安全だ何だと叫ばれてる今だからこそ、食卓に並んでいるその肉はどこから来たのか?どうやってこの形になったかを知るべきだと思った。そしてこれを読んでからものを食べる時にますます感謝の気持ちでいっぱいになった。
 生きて行くことは、命を奪うことなんだ。そうするしか生きる道はない。動物や植物を食べ、戦争で殺し合い、いのちといのちが擦り合わさって今のあたしたちがある。そういう葛藤や矛盾。そこで生きてく混沌と感謝と、いろんな感情が交じり合う。いつか終わりはくるけど、あたしは知ることを拒否しないで、しっかり見つめた上で生きることを選ぼうと思う。なんか、こんなに切なくも前向きにさせてくれる本や思想に出会えたことが嬉しくてたまらない!
こんな1日の日記で書ききれるような話じゃないけどなー。