「死んでしまおうか」なんて思っている現在を生きる君へ

41歳からの哲学

41歳からの哲学

人間自身―考えることに終わりなく

人間自身―考えることに終わりなく

 図書館から借りた本。この2冊が両方とも『週刊新潮』に連載されていたものだと知らずに借りてきた。池田晶子の本は結構こういう形(週刊誌連載の文章を書籍化)が多い。ひとつひとつが読み切りであり、全部が繋がっているとも言える。
 ネット心中なども含む自殺について、池田晶子が書く言葉は、わたしが思っていたこと、まさにそれで驚いた。

 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。
 この短絡が起こるもうひとつの大きな理由がある。先に死んだ人は、死んだことで、楽になったように見えるからである。しかし、ここでもむろん、我々は立ち止まることができる。
 なるほど死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているのかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったら、どうする。

 「楽になる」と言っている人は皆、生きている人間だ。死んだことのない人間。死んだ人間は絶対におしえてはくれない。それを何故信じることができるのか。おそらく、そこまでいってしまう人間は、そういったところを深く考える思考能力すらなくなっているのかもしれない。けれど、最近流行りのネット心中や硫化水素自殺なんかは、インターネットから情報源を得ようと、パソコンの電源を入れ、ヤフーやらグーグルやら何やらで単語を打って検索、当てはまらなかったらスペースを入れて違う語も入れて更に検索、そうやって準備を進めるのだろう。検索。何だかなぁ、と思う。どこまで人を頼るのだろう。生きた人間からその情報を提供してもらい、同じ思いの人(実際に「同じ思い」の人なんているもんか!)を探して、一緒に死にましょう、と。何故、こんな個人的なこと、人に頼れるんだろう。
 池田晶子は言う。人は、死ぬときは1人である、と。いくら人と死のうが、その人間の死を死ねるのは自分しかいない。たとえ同じ瞬間に心臓が止まったとしてもだ。眠るときのことを思えばわかるはずだ。隣に人が寝ていようと一緒に眠ることはできない。自分が見る夢を共有することはできない。生きていることだってそうだ。自分という人間を生きることができるのは「わたし」しかいない。だから、みんなで自殺しようが意味はないのだ。むしろ、1人死に、2人死に、と誰かが死んでいく姿を見ることになるかもしれない。それで自分の意識がまだあったとしたら?そこでやめたいと思ったとしたら?
 生まれたからには、わたしたちは「絶対に」死ぬ。1人の例外もなく、確実に。その生きている間に嫌なこともいっぱいあるだろう。むしろ嫌なことのほうが多いかもしれない。でも、その嫌なこと自体も自分の「主観」だ。同じ出来事でも、自分が嫌じゃないと思えばそれは嫌ではないことになる。結局、意識次第なのだ。なら、好きに生きれるじゃないか、と思う。誰の目を気にしてるのですか?誰から見て幸せになりたいのですか?
 人間なんだから、人生なんだから、いろいろあって当たり前。それが人生の性質だ。生きてることを「楽しむだけ」のことと思っているから失望するのだ。とにかく、死ぬときまで生きて、味わい尽くそうじゃないの!