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稲垣足穂 [ちくま日本文学016]

稲垣足穂 [ちくま日本文学016]

 久しぶりに大粒の雨が降りしきっている午前、わたしは電車に揺られて、そして病院の待合室で『一千一秒物語』を読んだ。はっきり言ってわからない。理解が追いつかない。それなのに、有り得ない景色、有り得ない出来事、そんなのが次々とわたしの目の前に現れて動き出す。すると楽しくて仕方ない。何が起きても驚くことはない。抜けられない。
 この物語は、それぞれの項目ごとに断片的で1つ1つが違う話でもあるけれど、全体として、それぞれはそれぞれとランダムに繋がっている。時々、主体が無くなってしまって、それを客観している別の目が出て来る。
 ここでは、月や星が擬人化される。

 ポケットの中の月
 ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころろどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

また別の話では自分を落としてしまう。

 自分を落としてしまった話
 昨夜 メトロポリタンの前で電車からとび下りたはずみに 自分を落としてしまった
 ムーヴィのビラのまえでタバコに火をつけたのも かどを曲がってきた電車にとび乗ったのも窓からキラキラした灯と群集とを見たのも むかい側に腰かけていたレディの香水の匂いも みんなハッキリ頭に残っているのだが 電車を飛び下りて気がつくと 自分がいなくなっていた

 こんな不思議な世界が続く。そして最後にこんな言葉で締めくくられる。

ではグッドナイト!お寝みなさい 今晩のあなたの夢はきっといつもとは違うでしょう

 夜が待ち遠しい。