一生の本。

買った買った買った。買った本の羅列。

感情教育〈上〉 (岩波文庫)

感情教育〈上〉 (岩波文庫)

感情教育〈下〉 (岩波文庫)

感情教育〈下〉 (岩波文庫)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

フーコー・コレクション〈1〉狂気・理性 (ちくま学芸文庫)

フーコー・コレクション〈1〉狂気・理性 (ちくま学芸文庫)

カフカ・セレクション〈1〉時空/認知 (ちくま文庫)

カフカ・セレクション〈1〉時空/認知 (ちくま文庫)

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

顔のない裸体たち (新潮文庫)

顔のない裸体たち (新潮文庫)

 狂ったように買ったけれど、これを消化していくには数年(いや、もっと)かかるだろうな。『顔のない裸体たち』は単行本版からグロイとされた部分を削っているらしいので、単行本版も購入する必要がある。
 『純粋理性批判』は、もうかれこれ6、7年前にある大学で講義を受けていた時に、尊敬する先生が「諸君には、絶対に読んで欲しい」と力説していた本だ。先生は、どことなく村上春樹のような風貌だった。その講義っていうのが本当にすごかった。とにかく、歴史を、法を、哲学を、知りたい、知りたくてたまらない、という思いにさせてくれた。講義を聞いて涙を流すなんて初めて体験した。私はそこで、知に対する愛、要するにフィロソフィーをはじめて感じたんだと思う。そう考えたら愛知県って、すごくいいネーミングだな。
 何かを深く理解していくたびに繋がる輪。リンクしていくときの音が聞こえてきそうだった。あー、全部はここに繋がっていたんだ!ってね。と考えると精神世界の、すべてはひとつである、っていう思想にも繋がっていく。
 で、そうだ。先生が言った本は全部読もうと思った。授業の後、わざわざ教壇に行って「おすすめの本をおしえてください!」なんて言っていたんだもの。私。自分が、学問の世界に入って行く時の奮い立つような思い、なんか、そんな感じに少しだけ酔っていたようだった。仕事よりも恋愛よりも、この学問の門を叩くっていうことに、私の中にあるエネルギー、熱の塊みたいなものを注いでいた。
 先生の講義の最終日、クラスのやはり先生のファン(?)の人たちと御茶ノ水で飲んだ。それぞれの人生を語り合った夜だった。泣けてくるほどに。私はまだ、今の自分を形成している要素のほんの10%も満たないような濃度の薄い「わたし」であったにも関らず、人の人生に感動し、共感し、自分の切なさやもどかしさや苦しさなんかも話していたような気がする。そして希望について特に多くを語ったかもしれない。この先の、自分の人生。出遅れたことだって一からスタートしてそして克服して、掴んでいけると思っていたんだ、この頃は、まだ。
 高田馬場の本屋で、『世界の歴史』シリーズを買った。高い本だから、少しずつ。岩波文庫の棚の前でカントの本を探した。『純粋理性批判』を上中下、見つけた。上を少し開いて読んでみた。そして棚に戻した。
 何故、あの時、勇気を持ってその3冊をレジに持って行かなかったのか、と今になって思う。その時にはじめていれば、この現在も少し何かが変化していたんじゃないかって。あるいは、結果はいずれも同じだったかもしれない。けれども、そこで、一歩を踏み出さなかったことを、ずっと気にかけていた。私は、勇気がなく、そして挑戦する前に逃げたんだと。それが直接の原因じゃない。いま、こうしている私は。けれど、どこかで、知から逃げたわたしは、結果、大学を卒業することなく、擦り切れて行った。ずっと喉の奥に何かが詰まった感じをぬぐえない。今、また何回目かのチャンスがやって来ているのかもしれない。
 ここは、東京だ。あの、逃げて帰った片田舎じゃない。

 『純粋理性批判』を検索していて引っかかったサイトで、とても心惹かれる文章があったので
以下に転記させていただく。何か、すーっとこころを通り抜ける透明な風のようで、そしてそのあとにしっかり納得させてくれるものが残るような話。

君へ 純粋理性批判を読む


もう、三年近く前のことだ。
 その人は、いつもみたいに、とびきりおしゃれではないけれど、仕立てのいい、上品な色のスーツを着ていた。寒い、冬の日で、コーヒーカップが目の前で湯気を立てていた。

 「ここに、カントの、『純粋理性批判』があるとしよう。君はそれを読むことができるだろうか。」

 それは些か唐突な話題だったから、面食らったわたしは、持っていたカップを慌ててソーサーに戻した。けれど、その人は、ゆっくりと、その話を続けた。まるで、子どもに絵本を読んで聞かせるみたいに。

 「ここに、カントの、『純粋理性批判』があるとしよう。君はそれを読むことができるだろうか。もちろん、「読む」ということは、ただ字を追うだけじゃない。内容を理解するということだ。だから、君がもし、この本を眺めることが出来たとしても、それは「読めた」と言うこととは違う。
 最初の質問に戻ろう。君は、『純粋理性批判』を読むことができるか?もし、君が、質問ばかりして、僕が自分のことは答えようとしないのがアンフェアだと思うなら、僕が先に答えよう。僕は、この本を読むことができる。何故か。それは、僕が、この本を読むための準備をしたからだ。いいかい、この本に限らず、こういう類の本を読むには、準備がいるんだ。

 君は楽譜が読めるかい?読めるなら、話は簡単だ。最初に楽譜を見たときのことを思い出せるだろう?はじめて楽譜を見たとき、君は、あれが何を意味しているか分からなかったはずだ。楽譜の読み方を知らない人にとっては、あれは何の意味ももたない。楽譜を読むためには、それなりの準備がいるんだ。まず、楽譜の読み方――音符の読み方から始まって、拍子の数え方、いろいろな強弱記号などの規則――を覚える必要がある。次に、ひとつひとつの音符がどの音に対応しているかを耳で覚えなくちゃいけない。音符が読めて、規則の標識を理解し、その音符や規則を実際の音に変えることができて初めて、君は楽譜を読めたことになる。
 『純粋理性批判』を読むことも、楽譜を読むこととたいして変わらない、と言ったら君は驚くだろうか。でもこれは本当のことだ。音符の読み方を覚えることは、字を覚えることだ。字が読めなければ何も始まらないからね。規則を覚えることは、単語の意味を知ること、音符がどの音に対応するかは、書かれている物事の意味を体で覚えることに相当する。そして、書かれている物事の意味を、自分の言葉で表現できて初めて、君は『純粋理性批判』を読めたことになるんだ。

 確かに、完璧に楽譜を読めたからといって、完璧な演奏ができるわけではない(村上春樹もそんなことを書いていたね)ように、『純粋理性批判』を読めたからといって、完璧な人生が送れるわけではない。けれど、たとえ完璧な音楽でなくても、音楽が人を癒やすように、この本も、君に何かを与えてくれるに違いない。

 もう一度繰り返そう。純粋理性批判を読めるか読めないかは、準備をしたか準備をしていないかの違いしかないんだ。頭の善し悪しは関係ない。

 最後にもう一つだけ言う。実は、僕は、君に『純粋理性批判』を読んで欲しいと思っているわけではないんだ。もちろん、できれば読んでみてほしい。もとい、読む準備を始めてほしい。けれど、僕が一番君に望むことは、ただの準備不足を、自分の実力不足と勘違いして、何かに挑戦するのを止めないでほしいということだ。」

(1996.2.28)

空の二階より(管理人様承諾済み)