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河野義行さんから教わること

 松本サリン事件の被害者である河野義行さんの奥様がサリンの後遺症による長い入院生活の上、亡くなった。河野さんは、これで自分の中での松本サリン事件が終わったとコメントしていた。私は、この本を読む前に森達也の『A』という本を読み、地下鉄サリン事件について深く考えさせられたという経緯がある。いや、もっと遡れば村上春樹の『アンダーグラウンド』(地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー)、『約束された場所で』(オウム真理教信者へのインタビュー)から始まっていると言っていいと思う。
「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

アンダ-グラウンド

アンダ-グラウンド

約束された場所で―underground〈2〉

約束された場所で―underground〈2〉

 この松本サリン事件の時の河野さん、地下鉄サリン、そしてオウムの報道の「熱」について、随所で指摘されているけれども、やはり「異常であった」としか思えない。確かに、被害に合われた方にとっては、感情的になるのは当然で、犯人は憎むべき存在だ!!と声を上げたくなるのはわかる。私だって叫ぶだろう。しかし、確定していない段階で誰かを名指しで糾弾するのは危険だ。事実、河野義行さんは警察やメディアによって、犯人に仕立て上げられ、大変な苦痛を味わっている。そんな中でも、自分の無実を証明し、メディアに謝罪させるため、裁判のため、そして何より真実のために、丹念にメモを取り、取材などの内容を録音をし、嫌がらせの電話にも対応した。精神的苦痛に押しつぶされず、そういった行為を怠らなかった結果、証拠を沢山残すことができた。そして、地下鉄サリン事件が起き、世の攻撃の対象はオウム真理教へと移ったのだった。
 私がものすごく不思議に思うのは、イラクの人質の時もそうだけど、報道をすべて鵜呑みにし、週刊誌なんかの記事も完全に信じて、「コイツが悪」と決めたら、その人に対して嫌がらせの電話(無言電話も含む)や、ひどい言葉を書き連ねた手紙を送ったりする「一般人」が沢山いるということだ。
 ゲストとして招かれた同志社大学の講義の中で、河野さんの息子さんは一般の人々の論調に対してこんなことを言っている。

「悪いものに対しては何をしてもいいんだ。それは正義だ」というような思い込みがすごくあると思います。

 これは森達也河野義行さんも言ってるが、オウムよりもそういった一時的に過激になる一般人の勢いのほうが怖いと・・・。しかし、これもメディアによる情報コントロールの結果だ。毎日毎日、テレビや新聞で「あいつが犯人だ」「あいつが悪いんだ」と直接的な言葉でないにしろ、恐怖を煽ったり、敵意を引き出すような報道がなされるたびに、私たちは、まだはっきりしていない事柄に対しても、記憶にそう刷り込まれていくようになる。その陰に、何かの間違いだとか、何らかの事情があるとは想像できなくなっていく。地域住民のインタビューにしろ何にしろ、メディアは先行させたいイメージに合う必要な部分だけをカットして使う。そして、私たちは、その「部分」だけを信じてしまうのだ。
 だが、1つ言えるのは、メディアは、みんなが欲しがる(面白がる)情報を流したがるということだ。それはテレビ局が新聞社が出版社が、営利の企業であるからだ。儲けるためには視聴率、部数を稼がなければならない。そのためには、世の中の人の好奇心を掻き立てる必要がある。それも、他社よりも1秒でも早く提供する必要があるということ。このことが、河野義行さんを犯人に仕立て上げてしまい、大多数の無実のオウム信者を社会的につまはじきにしてしまった。
 社会の悪を、すべて塗りつぶしていった先にどんな世界が待っているのだろうか。憎しみの矛先が常に誰かに向かっていなければ気がすまない人間がこの世の中には多く存在する。そうして、自分の正義を確認しつづけているのかもしれない。内在する悪に目を瞑って。

 河野さんがいつもおっしゃられている「憎しみからは何も生まれない」という言葉に私は勇気付けられている。人を憎むというのはものすごくエネルギーがいること。そんなことにエネルギーを使う人生は幸せではない、と。あれほどの痛み、苦しみを味わっていながら、いや、味わったからこそ、それでも強く生きていくための思考なのかもしれないと思う。河野さん夫婦のことを思うと、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 奥様のご冥福を心からお祈りいたします。