視点の転回

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 池澤夏樹といえば、続刊中の「世界文学全集」というイメージしか持っていなかったのだけれど、「実は、こんなに哲学的で透明な文章を書く人だったのか!」という驚きが、読み終えた私の第一声だ。そして、思うのは、何故今まで出会わなかったのだろう、ということだ。私が求めていた世界はまさにこれではなかったのか、と。
 この本はこんな世界に対する見方から始まる。

 世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を創造してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

 染色工場でアルバイトとして働くぼくと、いつかぼくがヘマをした時に助けてくれ、すでに仕事を辞めてしまった佐々井は一緒に飲みに行き、こんな話をする。

 「色の管理って、もう少し厳密にできないものなのかな?」とぼくは言った。飲みはじめてしばらくたった頃、彼がやめてぼくがまだ残っている職場の話になった時のことだ。
 「ロットごとに違わないようにかい?」
 「そう、同じ種類の糸を、同じ染料と媒染剤で染めて、同じように水洗いしているんだろ。液の温度も時間も変わらない。なぜ微妙に違う色になるんだろう」
「そんなに何もかも管理はできないよ。染色なんて、分子と分子が勝手にくっつくのに、人は少し手を貸しているだけなんだ」
 「ほんの少しの違いなんだけど、たしかに違う」
 「この場合、人はただの戸籍係さ」
 「戸籍係?」
 「男と女が勝手にくっつく、その最後の形式的な段階しか戸籍係にはわからないんだ。途中で口をはさんで、誰かと誰かを結ぶなんてことはできない。わかっているのは、男と女を何千人かずつ一緒の社会に入れておくと、その何割かがやがて戸籍係のところへ婚姻届を持ってくるということだけさ。分子と分子の場合も同じだよ。わかるのは最後の結果だけであって、戸籍係が年度内に百枚の婚姻届をそろえたいという野心を持ったところで、どうにもならない」

 そしてある時、ぼくは雪の降る海で岩になろうとして、こんなことを考える。

 雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水のすべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。

 この本に出て来る比喩表現は、まさに「コペルニクス的転回」!爽やかな風が通り抜けるような青春小説であり、密度の濃い世界論。本当、何でもっと早くに出会わなかったんだろうか。いやむしろ、当時の私には贅沢品で、咀嚼して味わえる今だからこそ、出会ったのだろうか、とも思う。