『キャッチャー・イン・ザ・ライ』/J.D.サリンジャー 村上春樹訳

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

 この本を初めて読んだのは『ライ麦畑でつかまえて』ってタイトルで、野崎孝訳の本だった。中学の狭くてボロイ図書室で見つけたんだ。たぶん、子どものうちに1度は読んでおかなきゃいけない本なんだって信じていたんだと思う。眠る前に数ページずつ読み進めていって、何だか今まで読んだどんな本とも違うと思った。まあ、中学生のころじゃあたいした本は読んでいなかったんだけど。さらりと読んで、何が胸に響くとかいうのもなく、なんとなく手元にあって、そんで、何故かわたしはその本を図書室に返さなかった。特別気に入ったっていうわけでもなかったのにね。だけど、中学卒業の前に、図書委員だったかに呼ばれた。本を返してと。で、もちろん返した。
 高校3年になって、大学受験だ何だって、塾に通うようになった。たしか冬期講習か何かで、札幌の予備校に行ってたんだと思う。その時に、本屋で見つけて無性にこの本が欲しくなった。そのとき買ったのは、これだった↓白水社の。もちろん、野崎訳で。
ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 予備校の講習は自分には少しレベルが高すぎて、いつのまにかついて行けなくなって、あるとき、教室に入ったら、私の席に違う男の子が座っていて、たぶん、席を間違ったんだろうと思うけど、何かそれを指摘してまでその席に座るのが急に面倒になってしまって、私は教室を出て買い物とか始めちゃったんだ。それから、ちょくちょくサボるようになってしまって、滞在していた親せきの家でも部屋にこもって本ばかり読んでいた。
 そこで『ライ麦畑でつかまえて』を再読して、何だかバチーンとはまってしまったんだ。中学生の頃なんて、ほんの数年前だっていうのに、その数年に私の何が変わったんだっていうくらい、もう、ものすごくこの本に心惹かれてしまった。函館にいる友達に手紙を書くのだって、下手したらホールデンみたいな口調になっていたと思う。人が何かにバチンっとハマるには時期っていうのがある。タイミング。自分の置かれた状況とか気持ちみたいなもの。そのデコボコにうまくフィットするかどうかってことなんだと思う。私にとってはそれは18歳だったってこと。
 今回、村上春樹訳で初めて読んだんだけれど、あの頃読んだ感覚とはまた違った印象を受けた。それは、訳が違うからってだけじゃなくって、そこに出てくる人間それぞれの、立場、心情?何て言ったらいいかな。とにかく「個」が鮮明だったってこと。受け取る私が、30年ちょい生きてきて、様々な「個」に出会ってるわけで、そのぶん、感じられる幅が広くなったせいなのかもしれない。
 だから今は、ホールデンだけじゃなく、ストラドレイターやアックリーの輪郭がくっきりしている。そういえば、銀杏BOYZの曲の中にも「ストラドレイター」が出てくる。何だか、そういうのって、参っちゃうよね、真剣な話。
 たぶん、わたしは、死ぬまでこの本からは離れられないんだろうな。10年後にも読み返すんだっていうのが何となく想像つくもの。