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たばこをめぐる幸福論

禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)

禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)

 またまた夫の蔵書から失敬してきた本。禁煙外来で長年がん患者の壮絶な最期をみてきた奥仲医師とヘビースモーカー太田光のたばこ論争・・・のはずが・・・案の定、太田さんの持論の展開に先生がやられっぱなし(笑)がんだけでなく呼吸困難になってもなかなか死ねない苦しい病気(COPD)について先生が説明をして、太田さんを怖がらせようと思ってもあまり効果なし。
 太田さん曰く、「健康ってつまんない」

 いってみれば、健康がつまんないのと同じようになんの問題もない平和な世界というのもつまんないんですね、おそらく退屈で。つまり、平和とか健康とか、それは何かぼやけた世界だというイメージがあるんですね。争い事がないということは憎しみがない。ということは、憎しみがなきゃ愛情なんかあるわけがないと思うんですね。憎しみという感情があるから愛情というものがある。
 だけど我々人類というのは戦争も含めて、そういう愛憎をさんざん繰り返してきた。だから、一ついえるのは、つまんなくてもそれに耐えられるようにもうそろそろ進化してもいいんじゃないかという気はしています。つまり、つまんないことにしない方法を何か考えるべきじゃないか。健康でもつまんなくない、という、それはそういう考え方なのか生き方なのか、抵抗を感じなくても自分を感じられれば幸福なんですよ、おそらく。

 太田さんは、たばこを吸う時の(実はまやかしなんだと奥仲医師がいう)リラックス感も、イライラというマイナスに、ニコチンを送り込むことでゼロになる、この充足が気持ちいいんだと言う。人間は、そういったマイナスがなければ、喜びも得られない。常に満足な状態ではいられない生き物であると主張する。

 マイナスを目の当たりにしないと、幸福感って認識できないんですよ。食い物がないようなところで暮らしている子どもたちは可哀相だと、よく人は言います。でも本当にそうだろうかって、時々考えるんです。そりゃ食い物がないのは可哀相なんだろうけど、そういう子どもたちがすごく飢えてる状態で何か食べ物にありついたときのうれしさと、我々がふだんフランス料理を食って、うまいねって言ってるのと、どっちがその人にとって幸せなんだろう。僕なんかは、ふだんつらい分、飢えてるときの食べ物のほうが絶対美味いだろうと思うんです。

 ずっと続く幸福感というのはあり得ない。あったとしたらちょっとヤバい。恋人同士だって喧嘩をするからこそ仲直りした時に、より一層仲良くしたいと思うんじゃないか。そういった点で、太田さんの言ってる感覚はとてもよく理解できる。たばこをそれに当てはめて考えるならば、私も同じ気持ちだし、がんになって死ぬのがなぜ悪い?と聞かれてもそれが悪いとは言えない。私たちは有限の存在であり、その消滅の仕方もそれぞれだ。
 ただ、私は今、たばこを吸わないけれど、過去に喫煙していたときのことを思い出すと、喫煙というのは、凹んだ隙間を埋める行為であったと感じる。切なさに煙を充満させて麻痺させて、一時的に感じなくさせるような方法だったと思うのだ。じゃあ、吸わない今は、隙間はないのかと言えばもちろんあるのだと思う。ただ、私にとってたばこを吸っていた時期というのは極めて精神的に不安定な時期であった。落ち込むから吸うのか、吸うからその充足と欠落の幅でまた落ち込むのかわからなくなる。ともすれば、たばこを吸うことで束の間のリラックスを得ていたようで、実はそこからまた根こそぎ何かを奪われていたようにも感じるのだ。吸わなければ落ち着かなくなる、というのは、やはりゼロをプラスにする行為ではなく、マイナスをゼロに戻す行為であるということだ。

 これほど、たばこが健康を損ねると叫ばれていても決してなくならないのは、たばこを生産する国、税金、いろんな金の動きが、態度をはっきり決めかねる方向に進ませているのは言うまでもない。
「たばこはあなたを殺します!」とたばこのパッケージに書きながら販売するという矛盾。吸ってほしくないのか吸ってほしいのか。

 ちなみに、太田さんの医学的な検査はすべて非喫煙者と何ら変わらぬ正常値であった。