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死と生きる

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

 読み終わった。ここで生きた対話をした2人はもういないんだ・・・。人の可能性について考えた。どこまで変れるのか、考えることができるのか。
 睦田真志は強盗殺人という罪によって死刑囚となる。その獄中で初めて自分の罪の大きさに気づく。池田晶子の著書を読み、そこから『ソクラテスの弁明』を読み、へーゲル、ドストエフスキー、哲学書を読みあさり、一体あれは何であったか、自分とは他者とは社会とは何かを思索しつづける。そして、「わかる」という瞬間、その幸福を体験していく。死=悪、生=善という考えが人を不幸にする、死というのは誰にでも必ず訪れるものであるから、不幸なことではない。本当に不幸なのは、

金や食い物や、服や容姿や結婚や家族や健康や宗教やヤルだけの恋愛などだけを、自分の幸せと思って、ただ生きて、死ぬ時になって「それらがなければ、自分は今まで幸せとは思えなかった。自分自身、自分そのものだけでは、幸せでなかった。自分そのものは生まれてから今まで不幸なままだった。それがないこの先も不幸なのか」。

と思って死んでいくことである、と睦田は言う。もちろんこれは自分の死についての話。彼は現に他者の生を奪ってしまったわけだから。その動機についてもだんだんと明らかになる(本人も説、と書いているとおり、客観的な「動機」というものは存在しないのかもしれないが)。金に対する執着、大金を稼がなければ勝ちじゃない、お金がなければ友達もできない、そんな価値観で生きていた過去について。孤独、嫉妬、傲慢、強欲について・・・。
 私は、泣きそうになる、ため息をつく。睦田は、死と直面し、真正面から受け止めた時に初めてソクラテスの言う「善く生きる」という意味を考えることができたのだ。つい何日か前にある人に「生きている意味」を知りたくない?って聞かれた時に私は「ただ生まれたから生きるしかない、理由なんてないと思います」と答えた。けれど、今この瞬間ならば、「気づくため」だと答えるかもしれない。目のひらくような気づき、それがあっても死はやってくる。けれど気づかずに生きるなんて、できない。その点でやはり私も「生きている意味」を求めているのかもしれない。
 睦田は、死刑判決を受けたあと、それは当然のこととして受け止め、控訴しないつもりだった。しかし池田晶子から、この哲学対話を続け、考え、それを世に伝えるために控訴せよ、と説得される。

死ぬのは、いつでも死ねるのだから、やるべきことをやってから、死んでください。

 こんなことを言えるのは池田晶子だけだよ(笑)!と思った。
 時に感心し、共鳴し、厳しく追究する、これはもう魂と魂のぶつかり合いだ。2人とも肉体がない今、特にそれを実感する。