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小さい人間

新書

座右のニーチェ (光文社新書)

座右のニーチェ (光文社新書)

 シュレ猫を読み終わったらニーチェが読みたくなり、『ツァラトゥストラ』を読んでいたら、前にこの本を買ったことを思い出した。という連鎖でただ今、本家を差し置いてこっちを読んでいるところ。

小さい人どもに近づくときは気をつけよ。・・・・・
のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。
強壮な風の吹くところへ。
蠅たたきになることは君の運命でない。

 ニーチェが「小さい人間」と呼んでいるのは、「根拠なき批判に明け暮れる人間」のこと。ここで、齋藤孝倖田來未の「羊水発言」のときの世の中のバッシングについてを例としてあげる。発言に配慮がなかったことは事実だけれど、さらりと流してしまえるようなことに実際に発言を聞いてなかった人まで大騒ぎする。今までもてはやしていたのにいきなり鬼の首を取ったかのように英雄を引きずりおろし、嫉妬心や復讐心をあらわにしても恥ずかしくないという風潮はまさにニーチェが批判しているところの「小さな人間」だと。

小さい人間は数が多い。多数の小さい人間に囲まれていると、誰もがお互いに監視し合っているから、思い切ったことができなくなる。委縮して他人を恐れるようになる。保身に走るくらいなら孤独でいいではないか、とニーチェはいう。
 しかし、人間は孤独も怖い。孤独を恐れる気持ちは誰にでもあるから、小さい人間が集まる場所へ寄っていってしまう。そして自分もいつの間にか小さい人間になってしまう。安易に孤独を癒せるからこそ、強度な「孤独恐怖症」になりつつあるのが現代であろう。

 そう!まさに、これ!私が数年間考え続けてきたことだ。私はある時、普段何となく会っている友達を「本当の友達」じゃない、と思うようになった。今思えば、その友人とのつきあいは、人の噂話や悪口ばかりで何も得るものがなかったように思う。牽制なんてのもあったな。何人かで集まるからと言われれば、意識してはいないつもりだったけど、どこかで「仲間外れになりたくない」という気持ちが働いて、行きたくない場所にも足を運んでいた。私がいないところで、私の悪口を言われているような妄想まで抱いたりもした。どこかで心を開けず、本音が言えないにも関わらずつきあいを続けていたのはやはり「孤独」を恐れてのことだったのだと思う。1人になるのが怖い。ただそれだけ。つまらないものにしがみついていたものだ、と思う。近所に住んでいるからとか、他に遊ぶ人がいないから、という理由だけで、「その相手」でなければならないということもなかったんだ。
 人を選ぶ、というと何だかあまり良く聞こえないが、本当に必要な人を見極めないと運まで悪くなりそうな気がする。