杳子

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

 先生がデカルト哲学を説明する中で自分の感覚を信じられない(疑う)例として挙げていた『杳子』を読んだ。
 主人公の男の子は、神経を病む女子大生杳子(ようこ)と出会い、いつの間にかつきあうようになる。病気を理解しつつも、時に苛立ちを覚え、一緒にいるのに孤独にもなる、解放されたい気持ちになったり、絶対に守りたいとも思う。そしてたぶん、身を削りながらも一番の理解者になっていく。
 『杳子』は、こころ、からだ、その存在、についていつも意識を集中してなくちゃならない。私たちはこの日常を、このこころを、このからだを、「当たり前」と思ってしまいすぎるのかもしれない。大気と、このからだの中身が溶け合って同化したって不思議はないのに、いつもこのからだの外側1枚隔てて私は私で在り続ける。あの人でもこの人でもなく、私は私というからだの中にいる。今日はこの中に居るけど、明日はあの人の中にいる、ということもない。
 最初は杳子の言動が少し気味悪く感じた。読み進めていくうちに、彼女の魅力が少しずつ漏れてくるようだ。そしてその存在の痛々しさに哀しくなる。切なくて苦しくなる。最悪の事態終わってしまうのでは?という予感もあったのだけど、最後は何だか少しだけ光が見えてほっとした。きっと、何かが変わる。少しずつだけど変化していける、そう思えた。
 この世界、この現実で生活をしていくというのは、本当は大変なことなのだ。誰しもが杳子だっておかしくはない。日々を当然のこととして受け止めて、「当たり前」の顔して生きてる私たちはきっと鈍化されているだけ。感覚を麻痺させることでしか「生活」ができないんだろう。