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足の裏に影はあるか?ないか?

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想

 たとえば地平線と国境線について考えてみる。国境線は原理的にまたぎ越すことが可能であるのに対し、地平線は違う。

 地平線に向かってずんずんと進んでいくことを考えてみよう。私たちは、地平線の向こうをめざして、地平線へと近づいていく。たしかに、私たちのいる場所は移動していくし、地平線が見えている向こうの方の“あの地点”は近づいてくる。私たちは、“その地点”を越えて向こう側に行くことももちろんできる。しかし、地平線自体をまたいで越えるときはけっしてやって来ない。私たちが、“その地点”に立つときには、もう地平線はさらに向こう側にあるのだから。

 という話から始まり、小学生だった長男の

「お父さん、足の裏の所の地面には、影はあるのかなぁ。そりゃ足を地面から離せば影は見つかるけれど、足を地面に降ろしたときは、足の裏に影はあるの?ないの?」

 という質問にみんなで頭を悩ませる。光が当たっていないからそこは影だ、という人もいれば、影はないという人もいる。影がないからといって光が当たっているのでもない。影はあるのでもないのでもない、という考えにいくつく。
 だんだん混乱してくる。そんな感じで話は進む。そしてみんなが自然によく使うこの言葉について。

 「とりあえず」というあり方は、二つの異なる力が出会う交点のようなものだ。あるいは、「とりあえず性」は、二つの相反する要因がそこから生まれる種子のようなものである。「とりあえず、ビール」と注文するとき、「とりあえず、おひらきにします」と宣言するとき、「とりあえず、やってみよう」と決めるとき、私たちは、そのような交点に立ち、そのような種子の中にいる。
 「とりあえず」によって、ひとまず固定が導入される。注文はビールへと固定され、会には終止符が打たれ、逡巡はひとつの行為へと至る。しかし、その固定は、最終的なものではなく、あくまで一時的なものであることを、「とりあえず」という表現は告げている。その固定が、次にどのように解除され、どのような変化に晒されるかは未定ではある。しかし、固定が取り消される予感や、新たな流れへと向かう構えは、固定自身の中に漠然と保存されている。

という「とりあえず性」のページを読んでいるときに札幌の友達から電話が来た。来月、こっちで会う話。私は「とりあえず、そうしよう」とか「とりあえず、そういう感じでいいよね」とか、とりあえずを連発。いったん固定をしまくっていた。