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ちょっと過激な入門書♥

ドイツ古典哲学の本質 (岩波文庫 赤 418-5)

ドイツ古典哲学の本質 (岩波文庫 赤 418-5)

 この本は入手してすぐ、カントについて書かれたところを部分的に読んだのだけど、今回やっと通しで読み終わった。ハイネは詩人というだけではなかった!こんなユーモアある語り口で、哲学や哲学者について論じていたとは驚きだ。もともとフランス人に向けてドイツ哲学などについて書かれたものだが、素人にもわかるように噛み砕いて説明されているのでとても読みやすい。そしてつらーっとして、きびすぃーことが書かれていたり、愛情を持って嫌みを言ったりというのがまたかわいいのだ。ハイネ。すっかりファンになってしまったわ。
 序盤に出てくる、ドイツの妖精などの言い伝えのところで出てくるコーボルトの話はとても怖かったけどかなり心惹かれた。あれはホラーだ。


 では有名なカントについての記述を少し引用してみようと思う。

 カントの日常
 イマヌエル・カントの生涯の経歴を書くことはむずかしい。カントには生涯も経歴もなかったのだから。カントはドイツの東北の国境にある古い町ケーニヒスベルクの、しずかなへんぴな横町で、千ぺん一律の、ほとんど抽象的な独身生活をおくった。あの町の中央寺院の大時計でも、やはりその町にすむイマヌエル・カントほど冷静に規則正しく表面的な日々のつとめをはたしたとは思われない。起床、コーヒーをのむ、著述、講義、食事、散歩と万事がきまった時刻になされた。イマヌエル・カントが灰いろの燕尾服をきて、籐の杖をにぎり、住居の戸口から出てぼだい樹のささやかな並木道へぶらぶらあるいていくのを見ると、となり近所の人たちは知ったのである。今ちょうど午後三時半だと。

 時計より規則正しいカント・・・(笑)

 カントの認識論。物自体は認識できぬということ
 カントは人間の認識能力を容赦なく吟味した。この能力のおくそこをきわめ、この能力の限界をあまねく確定した。そしてカントはさとらねばならなかった。人間は、これまで知りぬいていると思っていた非常に多くの物を、じつは知ることができぬということを。これは大そう腹のたつことだ。けれども、人間の知り得ない物があるということをさとるのは、やはり有益である。われわれにこの道はとおれぬと教えてくれる人は、正しい道を教えてくれる人と同じだけの親切をつくしてくれるのだ。カントは証明してくれた。われわれは、あるがままの物自体を知ることはない。ただ、その物がわれわれの心に映るさまだけを知るのであると。

 これはすごくわかりやすい説明だと思う。私たちは、今、この瞬間に見ている「これ」を完全に自分が見えているように存在していると思ってしまっているけれど、私が見る「これ」と他の人が見る「これ」では、見え方が違っているかもしれない。たとえば同じトマト、その赤い色も、私とあなたで、全く等しく見えているとは限らない。もっとわかりやすく言えば、犬が見ている世界は白黒だという(これもはっきりとわかりませんが)、人間が見ている世界は色がついている。ではどっちが本物だろうか。もしくは未知の生物は、人間よりももっと鮮やかにこの世界を見ているかもしれない。その、物の本当は何だろう。音、たとえば今流行りのモスキート音、これは確かに音だけれど、大人には聞こえず、子どもには聞こえるという。では、この音は存在しているのかしていないのか。というようなこと。私たちは、物それ自体を見ているのではなく、感覚器官を通しての「認識」としてしかキャッチできないのだ、というのがカントの言いたいことなのだ。これを知った時、私はYES!と叫んだものだ(ったかも・・・?)。
 だからあの人が感じる世界と私が感じる世界は違う。物事がたとえば全く一緒の物事がそこにあったとして、だけど、認識はそれぞれじゃない?幸も不幸もないのだ。そこに認識の違いがあるだけなのだ。なんて思うのである。
 『純粋理性批判』が刊行された当時、「物自体」=「真理」と思っていた人たちはもう真理を知ることはできないのだと絶望し、自殺をした人もいるのだとか。しかし、逆に考えれば、完璧絶対の「モノ」が無いとわかった今、解釈によって世界はいくらでも変えることができるのだと考えると、希望が湧いてくる、と私は思うのだけど。
 とにかく私は楽になった。人がどう思おうと構わない。私は幸せだ!と言っていいと気づいたから。