「生きる意味」を知りたい方に。

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 第二次世界大戦の際に、強制収容所に送られ、妻を含め家族を失った精神科医、V.E.フランクルの講演を収録した本。
 1.生きる意味と価値
 2.病を超えて
 3.人生にイエスと言う
 この3つのテーマで語られている。
 私たちはすぐ「生きる意味なんてあるのかな」なんて言ってしまう。だって、どんなに良い行いをしたところで、みんな死んでしまう。ならば、「今」死んだって同じことじゃないのか?なんて考えてしまうからだ。頑張って何かを達成したところで、自分が死んだら「何も残らない」なんて。だけど、そもそも、「生きてる意味」を問うということが可能なのか?生きているからこそ、意味を問えるのだし問うているのはむしろ、人生のほうで、人生から私たちは「お前はどう生きるのだ?」と聞かれているのだ。
 フランクルは、強制収容所の暮しの中で、人が普通に苦悩するように苦悩したい、と願ったという。現実は、1日1回だけのスープのこと考え、今日は水のようなスープではなく、その中にじゃがいもが浮かんでいたらなあ、と思う。収容所では、絶対に「働ける」という印象を与えるように努力しなければならない。少しでも足を引きずっているだけでガス室に送られる理由になるからだ。この環境の中では、「人が人生に苦悩する」、それ自体がとてもとても贅沢なことのように思われたのだった。
 壮絶な日々の中で彼らは、一度「無」になり、そしてガス室で完全な「無」になるのだと。
 しかし、彼は、そんな中でも、人間の自由は「完全に」失われてはいないのだ、と説く。実は自由を放棄しているのは自分なのだと。

 つまり、人間は、強制収容所にいるからといって、心の中も、分裂病質の「典型的な収容所囚人」になってしまうように、外から強制されているわけではけっしてないのです。人間には自由があります。自分の運命に、自分の環境に自分なりの態度をとるという人間としての自由があるのです。
 (中略)
 仮にほかのすべてのものは取りあげることができても、そして事実ほかのすべてのものは取りあげても、内面的な能力、人間としてのほんとうの自由は、囚人から取りあげることができなかったのです。その自由は残っていたのです。残っていた眼鏡まで、顔を殴られてめちゃくちゃになっても、ある日ベルトを一切れのパンと交換せざるをえなくなって、とうとう持ちものがなに一つ残らなくなってしまったとしても、その自由はまだ残っていたのです。その自由は残っていた、最後の息を引き取るまで残っていたのです。

 そして、私は考える。
 私は、「この出来事があったら、落ち込んで当然だ」「傷ついたって当たり前だ」と思って、世間一般のモノサシに当てはめて苦しんではいないだろうか?たとえ、どんなことがあったって、私の心は「こういう状態でなければならない」と強制されているわけではないのだ。