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障害?サディズム?

死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人

死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人

 胃がむかむかする。
 アスペルガー症候群つながりで読んだ本。実際には、それと意識せず手に取ったところ関連性があると気づいたわけだけど。
 最近の殺人事件でよく聞く「死刑になりたい」とか「誰でもよかった」とか、一般的大多数の人間には理解できない発言。もしかすると彼らには、人に共感できないという障害があったかもしれない。司法の場では「反省」を求められるが彼らは、反省そのものがよく理解できない。どうやって反省をすればいいのかわからない。彼らの孤独を理解し、周囲がサポートしてあげたならこんな悲惨な事件は起きなかったのではないか?という視点からあらゆる可能性をさぐり、そして今後の対策を考える、というような1冊だった。
 ここに出てくる山地は、アルコール中毒で暴力をふるう父親(44歳で自滅的な死)と、息子が新聞配達で稼いだお金を使ってしまったり、息子の彼女に無言電話をかける母親に育てられた。貧困、いじめ、不登校、就職先での失敗、様々な要因が彼を追い詰めていく。彼は、子どもの頃から「変」だったと言われてはいるけれど、どこかで誰かが愛情を持って支えてくれたなら何かが違ったかもしれないと思わされる。しかし事件は起きてしまった。山地は、死んだ父親を美化し、父親が死んだ時喜んだ母親に恨みをつのらせ、交際相手の女の子にいやがらせをすることに腹を立て、とうとう母親を金属バッドで殴り殺してしまう。少年院では優等生として過ごすが、天涯孤独の身となった彼が行く着く先は、第二の殺人(全く関わりのない姉妹)だった。事件は何故起こったのか、わたしたちの感覚では全く想像できないまま、謎のまま、山地の死刑は今年の7月に執行された。
 わたしは、いつも思うのだけど、たとえば宮崎勤、池田小学校の事件の宅間など、世間一般の常識では計りかねるような精神の在り方を持つ彼らを、ただ「悪魔は殺してしまえ!」というような報復・恐怖の感情で殺してしまうことで何が終わるのだろう?ということだ。彼らは、わたしたちが思う、想像する、世界に存在していない。わたしたちとは違う、独自の世界の中だけで生きているのだと思う。もちろん、それだから許されるということは絶対にないのだけど、何か、ほかに解明するというか、彼らが何かこちら側の世界の基準をうっすらとでも感じ取れる方法はないものか、と思ってしまう。
 今日、大学の哲学講義の中でマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』の話が出てきて、わたしはそれから書くのも憚られる、ある光景が頭を離れなくなった。そこに来て、この本を読んで胃の不快感は増すばかり。暴力的行為と性的興奮の繋がりはわたしにはちょっと理解しかねるが、そういう世界があるのは確かだ。人間とは本当に哀しい生き物だと思う。
悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)

悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)