子どものための哲学対話

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

 「死刑になりたい」とほざく連続殺傷事件を起こした例の男も読んでいたという永井均の「子どものための哲学対話」。猫のペネトレとぼくがプラトンの対話編みたいに進行していくのだが、簡単な言葉で表現されているけれど奥深い問いばかりで難しい。そこにはもちろん答えなどなく、突き放されたわたしたちは自分で「考える」しかなくなるような作りだ。自分の頭で哲学する、ということを最重要としているのだ。うまく表現された絵もあるしとっつきやすいゆえに、中学生の頃とかに読んでいたらもうちょっとマシな思考能力を持てたかも?なんて妄想をする。しかし、子ども時代に読んで違った意味の影響を受けてしまう人間がいるのだ。
 さて、問題の箇所と思われる記述だが。

ペネトレ:世の中がきみに与えることができる一番重い罰は死刑だね?死刑以上の重罰はないだろ?ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。

 え?これを、哲学的考察なしに、短絡して受け取ってしまったのか、と呆然とした。その薄っぺらな、言葉の表面の意味だけが心に擦りこまれてしまったのだろうか。もちろんそれは哲学ではない。実は哲学というのは、ギリギリの境目の、善か悪かの、狂うか狂わないかの、超えるか超えないかの、一歩手前で踏ん張る試みである。
 特にわたしが好きなページはここ。

第一章 8 こまっている人を助けてはいけない?
 (前略)でも、もっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみとおなじだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。そういう場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助けかたができるからね。

 いつも実感していることが明確な言葉で示されていた。