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聖なる母と透明な僕

聖なる母と透明な僕

聖なる母と透明な僕

 図書館で今日借りた本。田口ランディの文章を読むと、自分が普段抱えている問題だとか興味関心を先に書かれているかのような気持ちになる。変なかんじだ。知り合いであるかのような錯覚を抱く。要するに、すごく、近いのだ。タイプなのだ。
 今回も、わたしの関心をしっかりと射抜いてきた。病や死、そして生きることそのものについてだ。ストレートに本質だ。

 それまで自分が信じていた価値観の喪失。私の兄はひきこもりの末にたった一人、真夏の閉めきった部屋で餓死をした。そして、母は脳出血で倒れ、壊れもののような植物状態になり息を引き取った。私にはわからなくなった。いったい人間はなぜ生きているのだろうか。必ずいつか死ぬのに、私たちが生きていなければいけない理由はなんだろうか。生とはあまりにも残酷で無意味ではないか。こんな惨めな死が待っているのに、子供は誕生してきた。ものすごい力でこの世に生まれ出てきた。なぜなんだ。このエネルギーはどこから来て、どこへ還るのか。さっぱりわからない。謎だ。謎ばかりだ。こんな不条理と不可思議をかかえていながら、私はなぜ平然と生きていられるのか。この世には理解できるものなどなにもない。すべては謎だ。宇宙の誕生も終焉も、人間の生まれる意味も、生命現象も、星の存在も、人の心も肉体も魂も、解明できるものなどなにもない。

 たぶん富士見先生や川村先生に共通しているのは「人生はすべてその人のものだ」という認識だ。悩みも病気も苦しみも、ありのまま全部ひっくるめて人生であり、それがどんなに過酷であっても、その人から苦しみ全部を奪うのはおせっかいである。他者の絶望を前にして治療者はしょせんなにもできない、そういう諦めをもっている。それを無責任で、無情な突き放しだと感じる人もいるだろう。だが、安易に人を救えると思っている人間ほど浅薄であること、私は私自身の人生を通して実感している。この私がそうだったからだ。兄も、母も、父も死んだが、誰一人苦しみから救えなかった。救えないどころか彼らの絶望に寄りそうことすらできなかったのだ。

 バッチフラワーレメディの講座を受講したときに先生の口から田口ランディの名前が出た。『死ぬ瞬間』の著者エリザベス・キューブラー・ロスの名前も。それで久しぶりに読むことになったのだけど、やっぱりこの人も、痛みとともに世界を素手で掴んで、裸で勝負していると改めて思った。発言することの恐怖と戦いながらも。
 たとえば田口ランディは、神戸の少年Aの事件について、オウム真理教の事件について、感じることをそのままに世間とは違った角度からアプローチしようと何度も試みた。けれどやっぱり一つ言うにしろ恐怖がつきまとうのだそうだ。道徳観念が逆に人を攻撃するための道具になってしまっていることに「正しい」人たちは気づかない。どんな時でも犯人は憎むべき存在であり、みんな死刑にしてしまえばいいと世の中が思う。何の糸口も掴めずにそれで終わる。すべては謎になる。
 自分を救えるのは自分しかいない、という言葉もこの本の中に出て来た。さっと読み流してしまえば何と言ったことはない言葉に思えるかもしれないが、これは、その場にしっかりと立ち会った人間にしか、本当の意味で理解できない言葉だ。実際に、自分自身を救ったことのある人間にしかわからない。
 今、この本を読んだのは必然だ。『キュア』、『パピヨン』も借りているので続けて読むつもり。今のわたしにはかなりキツイ、目をそらしたい内容であることは間違いない。だって、両方ともがん患者の話なのだから。そして父親の看取りの話なのだから。けれど、読むべきだと思った。わたしは現実と対峙する。いつか必ず訪れる大切な時のために。