パピヨン

パピヨン

パピヨン

 小説のようで実話。これは田口ランディの、父の看取りの話だ。
 田口ランディは、連載のための取材として、エリザベス・キューブラー・ロスが見たという蝶(パピヨン)を追って、ポーランドのマイダネック収容所へと旅立つ。ロスは精神科医であり、言わずと知れた「死」の研究者だ。ロスについて調べるたびに、新しい発見があり、そしてシンクロニシティも起き始める。アル中の父に肺がんが見つかり、しかも治療中に痴呆まで発症したりしながら、病院を転々とする。最後にたどり着いたホスピスで父が人生を終えるまで、彼女は、現在だけでなく過去、家族の過去とも戦ってきた。愛と憎しみの念と共に。
 ロスの人生を追うごとに、目が開かれていく。そして父が亡くなり、彼女はまた大きな気づきを得ることになるのだった。

 ロスの言う通り、死期は他人が告知するまでもなく、本人が一番にわかっているものらしい。葬儀や火葬が終わって、ようやくお骨となった父が家に戻ってくると、なんだか気が抜けたようになった。これで私が生まれた家の家族が私を残してすべてあの世へ行ってしまった。淋しくはあったが、私には私が作った家族がある。夫と子どもと夫の両親がいる。
 その時ふと、血がつながっているのは子どもだけなのだな、とその事実にびっくりしたりした。血というものを、つながりとして意識したのはこの時が初めてのような気がした。よく「血のつながった親子」という台詞があるが、そんなのはナンセンスだと思っていたのだ。血のつながりってそんなに大事だろうか・・・・と。でも、自分一人になってみると、私の家族の気質が、なんだか懐かしくてたまらない。神経質で過剰で几帳面な私の家族。夫の家族はぜんぜん違う。掃除や部屋の整頓には無頓着だ。家にあるものはなんでも他人にあげてしまうような私の家族。それに比べて夫の家族は他人と自分の区別を明確につけて、むやみに人にものを分け与えたりしない。私が親から受け継いでいる「気質」というものが確かにあり、それが大嫌いだったくせに、いまでは愛おしい。

 実は、わたしも最近「血」についてよく考えていた。
 わたしの、死んだ姉が養女だったことや、夫の実の両親は、血のつながりがありながら、実の息子であるわたしの夫に対して他人よりもひどい仕打ちをしてきたということに関係があると思う。一体、血というのは何故にそれほどに重要か!と憤りを覚えながら、思ったものだ。けれど、この本を読んで、憎しみを持ちつつも(実際に田口ランディは家族が大嫌いで早く死んでほしい、とすら思っていたのだ)、やはりそこから離れられない、それこそが血なのかもしれない、と思うようになった。我が夫が、あの元親たちと言葉を交わすことは二度とないだろう。けれど、どう転がってもあの親から生まれて来たということは、変えることのできない事実だ。それがどんなに、存在を否定したくなるような人間でも、だ。一体そこから何を学べばいいのだろうか・・・。今はまだわからないが、もしかすると、そこに大きな成長への鍵が隠されているのかもしれない。