生きなおすのにもってこいの日

生きなおすのにもってこいの日

生きなおすのにもってこいの日

 これまたバサラで購入の1冊。図書館で予約していたんだけど順番待ちしているあいだに見つけたので買っちゃった。
 やっぱおもしろいー。視点がすきだ。森達也と繋がる部分もあって、わたし好みなんだよな。ある種の人間には顔しかめられたり、嫌われてもいたしかたない発言とか、わたしとかにとっては、「よくぞ言ってくれました!」っていうふうになってしまう。あらゆる可能性を、頭ごなしに否定しないところとかね。犯罪とかの被害者に同調してぎゃんぎゃん言うわりには、次の日にケロっと忘れて生きている偽善者にいっぱつぶち込む感じとか、本当モリタツだ。
 今、トランスパーソナル心理学の本を読んでるんだけど、その中で「自分の体」は誰のものか?みたいな話が出てきて、小林よしのりに言わせりゃ「国家」に属する的な話になっちゃうし、宮台真司に言わせりゃ、人生に意味もクソもない、体は自分のもんだから援助交際OK!になってしまう、っていう話が出てきて、ちょっと個人やその身体、生命について考えていたところにランディさんのこの文章を発見した。
 東大生命倫理多分野交流演習講義録「カオスに生きる」から少し引用。

 売春とか臓器移植の問題が取り沙汰されるときに、やっぱり、
 「自分の体だから、どうやったって勝手だろう」
 という自己の体を所有する・・・・という発想が出てくるのは、これまで自分の体が所有された経験に基づいていると思うのね。労働力としてこれほどまでに所有されている自分が、自分の体くらい自分で所有したいと思うのは理解できる。右を見ても、左を見ても、すべては「所有」されているし、あらゆるものが「所有」の対象になっている。もうそこから逃れられない。
 (中略)
 しかるに、ですね。私の体というものは、やっぱり所有の対象にならないと思うんです。
 私はそう思うんです。だって生命って勝手に出て来たものですからね。私は生まれようと思って生まれたわけではなく、気がついたら生まれているわけです。しかも私が生きるための環境は他の生命によって維持されている。空気と水があって、生んで育ててくれる人がいて私が存在しているわけですよ。まったく受け身だよね。さらに死のうと思って死ぬのではなく、勝手に老いて死ぬわけです。私は私と体を分離できない。病気になったからこの体を放棄するってできないわけでしょ。私は私という全存在でもって私であるわけです。その私が、私を所有するというのは、私が私の体を道具として分離しているということですが、どう考えたって分離できないわけです。どちらかっていうと、私の体は私の意志に関わらず勝手に老いさらばえていくわけで、ということは、私は私の体に逆に支配されていると言えます。

 きっと、絶対的な正しさ、ってものはないんだと思う。人間が意味づけをしているだけで、それは生きやすいように、理解をしようとしてそうなっているんだと思う。けど、わたしは、ランディさんのように考えたい。ES細胞(受精卵から取りだす)を使った実験を支持している教授に「そんなことして怖くないのか?」と言い、ひと揉めした話も書いてあったけど、そういう、人間の、根源的な畏怖の念みたいのをひねりつぶして、すべて科学的に解決できるほど、人間は物体・肉体、だけの存在ではない気がする。