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戦争の世紀を超えて

 姜 尚中と森 達也の戦争についての対談集。ただの対談ではない。サブタイトルに「その場所で語られるべき戦争の記憶がある」と書いてある通り、ドイツに行きアウシュビッツを見学し、語る。韓国の北朝鮮境界線近くで語る。文庫版で追記された広島で語る。実際に過去の「記憶」が埋没した現場に行き、その「場」に感応して言葉で語りつくすのだ。知的な2人の会話に時々脳味噌の限界を感じつつも読了。まあわたしが戦争(というか歴史)を知らな過ぎるバカ女なだけなんだけど。この年になって少しずつではあるけれど理解し始めている(気がする)。
 戦争の話を読んでいると、人間というものの根本的な意味は何なのだろう?と思う。戦争も含めて人間なんだろうか?それとも戦争というものは完全に無くなることはあるのか、戦争なしの人間というものがあり得るのか、と分からなくなってくる。姜 尚中と森 達也は、真剣に、かなり苦しみながらも(希望を込めて)戦争を無くすことができる、というような話をする。抱きしめあって体温を感じあうこと、究極的にはそれにいきつくと。おっさん同士が抱きしめるとか気持ち悪い話になってるが・・・ちなみに、「抱きしめる」というのはジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』からきている。
 広島で森達也が語った言葉。


平和記念公園にある慰霊碑には、「安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬから」との碑文が刻まれています。この碑文に対しては、「アメリカが加害国なのに、なぜ被害国である日本国民が“過ち”という言葉を使うのか」的な批判が多い。とても浅慮な二元論です。イスラエルを例に挙げるまでもなく、加害と被害はそんな単純な図式には収まらない。
 ホロコーストの記憶は、ヨーロッパにおける後ろめたさを刺激しました。つまり加害者意識を、ドイツとともに全ヨーロッパが共有した。イスラエル建国という副作用はあったけれども、少なくとも域内ではこの加害意識が、戦争抑止への「入場チケット」として機能しています。
 どちらが加害の側でどちらが被害の側だということではなく、現在進行形で生きている人間すべてが、原爆で焼かれながら死んでいった人たちに捧げる思いを、あの碑文は示しています。主語は今この世界に生きている僕たちすべてです。僕たちすべての祈りであり誓いです。だからこそやがて被爆世代がいなくなっても、この世界に人類がいるかぎり、思いは続いていく。

 人はいつも、どちらが善でどちらが悪、と決めたがる。被害者と加害者とに分けたがるけど・・・戦争に正しさってあるのかな?「過ちは繰返しませぬから」の碑文に批判が多いということがとてもとても不思議だ。
 この本のタイトル、戦争の世紀を超えて、とある。わたしたちの世紀にはできないかもしれない。でも、戦争というものが無くなった、「昔は“戦争”と言って人間は殺し合いをしたんだよ」「えー?!何それー!信じられない!」と歴史で教わるような世紀がやってくるのかもしれない。