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無縁社会

 「無縁社会」というNHKのドキュメンタリーを見た。何とも重苦しい気持ちになった。誰とも接点がなく、それが誰なのか誰も知らないまま、見送る人もいないまま、この世から消えていくことを考えた。それはわたしかもしれない。わたしが先に死ねば夫かもしれない。兄弟も子どももいないということは、どちらかが先に死んだ時点で1人になるということだ。その時わたしは社会との接点を持っているだろうか?心配し合う誰かがいるだろうか?わたしは寂しさを感じている?どうだろう?誰かに、自分の死を悲しんで欲しいんだろうか?いや、誰も悲しませたくない。じゃあこの感情は何なのだろう?実際には、死んでしまった時点で、それを「どうしよう、困ったわ」と思う主体がなくなるわけで、言ってしまえば、本人にとって死んでしまったからには「知ったこっちゃない」わけだ。それを処理する人たちに若干の迷惑はかかるかもしれないけれど。
 きっとその「死」が問題なわけではなく、死に至るまでの生活を本人がどう思うかなんだと思う。あのドキュメンタリーの中に出てくるおじさんは、高度経済成長期に働いて働いてとにかく仕事人間として生きて来た。体調を崩して仕事も辞め、人付き合いがなくなり、熟年離婚によって家族もバラバラになり、精神を病み、1人で生きている。「あの頃は・・・」と懐かしみ、すべては崩壊してしまった、ということを嘆きながら生活している。
 孤独死が問題なのではなく、「後悔の日々で今を充分に生きられないこと」が問題なのだと思う。そして、そのことに気づけるかどうか。病気はサインだ。喪失によって気づくことは重たいほどにいろいろありすぎる。今、何歳であれ、そこからどう生きるか。失ったから終わり、ではなく、「生」は「死」の間際まで続く。その間をどう生きるか、なのだということを改めて思った。家で死ねると決まっていない。病院で死ぬと決まっていない。老衰で死ぬと決まっていない。事故かもしれないし、殺される可能性だってないわけではない。ただ、その瞬間までは生きているということだ。そしてどう生きるかなんて本当は自由なのだ。それぞれに違った人生があり、それをひとくくりにできないということは忘れないでいたい。