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批評と殺生−北大路魯山人/大澤信亮

新潮 2010年 04月号 [雑誌]

新潮 2010年 04月号 [雑誌]

食べること。食べて生きて死ぬこと。についてのメモ書き。

 生きることは食べることであり、食べることが殺すことであるならば、私たちにはどんな希いが許されているだろうか。何も許されていない。この結論は絶対に思えた。そこから目を逸らしたすべての試みが空疎に思えた。今も思っている。
 殺してよい者といけない者の線引きは言うまでもなく、殺される者への感謝も、殺す者としての反省も、居直りも、たった一つの命を奪う者の覚悟として、生ぬるい。菜食主義者の誇らしげな主張も、食事という暴力を忘れている。迫られているのは、その種の自己正当化の拒絶を最低条件とする、終わりなき自己への問いなのだった。

 人間にとって食事とは何か。さしあたり、生命の維持と、味覚の追求という、二つの機能が考えられた。食わねば死ぬ。だから料理の根本義は食うために作ることだ、そう魯山人は言った。そこでは味覚の追求は本質的な問題ではない。生存のための食事。しかし食っても人はいずれ死ぬ。だから魯山人は、何のために生きるのか、と問われて、死ぬためだ、と即答した。これをさらに進めるならば、私たちは、死ぬために食べている、そういうことになるだろう。たんに生き物を殺しているのではない。自分が死ぬために無数の命を奪っている。これは何なのか。食べている間は、不思議と忘れられるから、美味い物を求めもするが、食えば食うほど、死ぬために食っているという思いは、強まっていった。
 その先でこうも考えた。栄養によって成長するとは、固体が老いに近づくことであり、それでは食べるとは、穏やかに殺されることではないのかと。
(中略)
 生きるために食べていたつもりが、殺されるために食べていた、というか、すでに殺されて自然の一部となった肉片が、自然の先端において、私たちを食べている。これが食事の形式である。

 食べること、を考える時にいつも突き当たる。目をつぶる。生きて死ぬために、その時間のために静かに目を閉じるような感覚。そして、これが人が生まれ死ぬということ、自然そのものだと割り切るような感覚。しかしその感覚もいつもどれもしっくりこなくて、罪悪感と恐怖を感じるけれど、わたしはここでこうして、今生きている。生まれようかどうしようかと選択したつもりもなく、ここに生まれ生きていることだけは確かで、そして与えられたこの時間のあいだだけは、葛藤しながらも、二極に引き裂かれながらも生きるのだということ。受け入れる、というのだろうか少し違う。それを見る。存在することを認める、では少し強い。ただある、というのか、そこには判断や裁きもなく、ただ、ただ、漂うような。命。

とかなんとか考えるが、夫からはこんなファックス(我が家にやっとファックスがついたのです)→コレ
たぶん、生きてくこと、生活とはこういうことなのか・・・^_^;