『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』

 

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

 

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』を少しずつ読んでいた。何か苦悩している感じとか、「尊敬はされても愛されてはいない」などという少し寂しげな感覚に触れられて、人間ウィトゲンシュタインの思いに切なくなったりもして。

論理哲学論考』の、数学的で無機質な、質感からは受け取れない、生(なま)の人間の感情が伝わってきて嬉しくなった。もがくような苦悩に、暗澹たる気持ちにもなるのだが・・・。

わたしがマルガリート(彼が愛してやまない女性。他の男性と結婚をしてしまう)だったら、彼をぎゅうっと抱きしめて癒してあげたいような気持ちになってしまう。

わたしはきっと、知性によってして孤高の存在になってしまうような男性を、この自分の無知さを利用して慰めたい願望がどこかにあるのかもしれないと思った。

肉体労働で疲れた人間は、お風呂に入って、美味しいご飯を食べて眠れば回復するが(と思うが)、こういった頭脳を使って、生きることの無常と孤独に向き合い疲れている(苦しんでいる)人間は、何か、人のぬくもり、肉(人と世界をつなぐもの)が必要なのではないかと思うのです。

大きな愛とか。

「愛」とは何かと問われれば、わからなくて、わたしは困るのだけれども、それは恋愛のような狭義の愛ではなく、人間の持つ大きな力、湧き上がってくる源、人間存在そのもの、というか、光、みたいなイメージです。

規定するのが難しい。言葉は定義されてしまうと、その囲いの中で不自由になってしまうから。

こうして書くこと自体も何か、全てを狭めていってしまっている気がする。

本当は言語化などしなくても、この頭の中にあって、大気に散りばめられている〈これ〉。それを拾い集めて、無理やり言語の中に詰め込んでいる感じ。

しかし人と人が何かを共有するためには、その狭義の言語が必要とされる。

何とか、その不自由な言語を使ってコミュニケートして「分かり合ったつもり」になるしか方法はないのではないかな。

けど、言葉を尽くしているうちに(迷いながらでも、勘違いしながらでも)言わんとすることが「わかった!」と思う瞬間があって、それってすごく気持ちの良いもの。

もともと、別個の肉体と精神を持つ者同士、環境や思考の違い、体験してきたことの違い、これがごちゃまぜに、それぞれに所有しているわけで、すぐには一致できるはずがないのに、でも何か、ピンとくる、繋がる瞬間がわたしは好きです。

そのために、人と付き合っているのだと思うのです。

 

(注;いつもそうですが、この、著作のレビューではございません。基本的に、作品から得た感覚を綴るだけの日記です)